Opera19号
8/16

さんは、バイクで実習にむかう途中、交通事故にあって右手を失った。まだ20歳だった。 「箸が持てない。自分でズボンがはけない。字も書けない。水泳も、バイオリンも、看護師になる夢も全部あきらめなければいけない。人に指をさされるのではないかと思うと、怖くて外に出られない。もう社会には出られない」と、家から一歩も出ることなく、絶望の日々をおくっていた。護師を認めていると聞いて、背中を押された。単身、神戸の兵庫県立総合リハビリテーションセンターに向かった。そこで見たのが、「能動義手」だった。両肩の肩甲骨の動きを伝えることで「右手」の曲げ伸ばしもできるし、「指」で物をはさむこともできる。だが、機能優先のため見栄えが良いとはいえない。 「私、こんな手なら要りません」と答えてしまった。「だったら、静岡に帰りなさい」と言われた。看護師になる夢をつかむためには、時間がかかってもこの義手を受け入れるしかない。野村さんは、この手を「フック船長」と呼び、使いこなすため静岡で看護師をめざしていた野村それでも、厚生労働省が片腕の看の訓練に励んでいった。車椅子バスケットの試合を見たことなどがきっかけになって、小学生のころに習っていた水泳を始めてみたいと思うようになった。リハビリテーションにも役立つはずだ。そのためには、自分で電車を乗り継いでプールに通わなければならない。でも、片腕のない姿を人前にさらしたくない。そこで、シリコン製の「装飾義手」を作ってもらった。長袖を着れば、まわりに気づかれなくてすむ。少しずつ気持ちが前向きになり、それまで怖くて仕方がなかった社会に踏み出す一歩になった。野村さんは、それを「魔法の手」と呼んでいる。看護師になった翌年、北京パラリンピックに出場し、100メートル平泳ぎ4位、100メートルバタフライ8位という成績をおさめた。さらにロンドンパラリンピックでは、100メートル平泳ぎ8位だった。 「義手を使うための作業療法で肩甲骨を動かせるようになったことが、水泳にも活かすことができたのです。でも、パラリンピック出場は、私にとって通過点にすぎません。これま「フック船長」との出会い「魔法の手」で気持ちが前向きにJAPANESE ASSOCIATION OF OCCUPATIONAL THERAPISTS 8      野村真波さん。義手を使って働く看護師になって8年になる。 4月29日、クイーンズスクエア横浜で、作業療法フォーラム「あきらめない心と作業療法――義手(失った片腕)が与えてくれたもの」が開催された。野村さんは、そのなかでバイオリン演奏を披露するとともに、自らの体験談を語った。 あわせて、日本作業療法士協会の中村春基会長は、6月に横浜で開かれる第16回世界作業療法士連盟大会の記者発表をした。野村真波さんあきらめない心と作業療法義手が与えてくれた人生の宝

元のページ  ../index.html#8

このブックを見る