OTのスゴ技(作業療法士)

ICTが、重度身体障害者の世界を広げる

OTのスゴ技

福祉用具

身を横たえた女性。その眼は、机の上に置かれたパーソナルコンピュータ(PC)の画面を見つめている。かすかに、左手の親指だけを動かしている。「カチッ、カチッ」と、小さな音が時々聞こえてくる。「こんにちは」。PCの画面をのぞくと、あっという間に文章ができあがっていた。

ICTが、重度身体障害者の世界を広げる

PCを操作し、メール文を作成している紺野瑛理さん

 全身を横たえた女性。その眼は、机の上に置かれたパーソナルコンピュータ(以下PC)の画面を見つめている。かすかに、左手の親指だけを動かしている。「カチッ、カチッ」と、小さな音が時々聞こえてくる。「こんにちは」。PCの画面をのぞくと、あっという間に文章ができあがっていた。「よろしくお願いします」。PCの画面を通じて、会話ができそうなくらいのテンポの良さで、テキストを入力している。紺野瑛理さんは「先天性ミオパチー」という難病を持って生まれてきた。筋組織の異常により筋力が弱く、歩行困難や運動発達の遅れ、重篤な人は呼吸困難などの症状を起こす病気だ。紺野さんは生まれて間もなく呼吸困難に陥り、気管切開の上、呼吸器をつけての生活を余儀なくされた。紺野さんが幼少期のころから作業療法士としてかかわっている田中勇次郎さんは、まだPCが一般に浸透していなかった時から、いち早くPCを使った重度身体障害者のコミュニケーション支援における作業療法の可能性に気づき、紺野さんと出会ったときも「いつか必要になる」との思いから、PCを使った作業療法にも取り組んだ。作業療法士がPCを操作するなどICT(情報通信技術)を活用して支援を行う際には、まずICT機器の特徴や操作機能などの情報を十分得て、利用者の運動機能(筋力低下や関節がどのくらい動くか等)・知覚機能(視覚・聴覚・触覚などの感覚)・認知機能(記憶や学習能力等)、操作姿勢や操作環境、介護者の状況などを考慮し、機器の選定や操作方法、スイッチの適合、機器の固定など環境調整を行う。紺野さんも今では自由自在にパソコンを操作し、お母さんや施設職員などともメールでやり取りをしている。

ICTが、重度身体障害者の世界を広げる

左手親指でスイッチを操作する紺野さん。スイッチは市販の部品、手を載せる板は作業療法士の自作だ

 紺野さんの事例にみるように、ICTを活用することによって重度身体障害者のコミュニケーションの世界は大きく広がっていく可能性がある。その時、作業療法士が果たせる役割が2つあると、田中さんは言う。ひとつは、ICT機器やソフトウェアを「適合」させること。紺野さんのような状態の人にはスイッチを使い、入力サポートソフトで文字入力ができるような環境を整える必要がある。その時、使いやすいスイッチの形状や反応の感度は、人によって異なる。また進行性の病気の場合、段階によって動かせる部位や可動域が変わる。一人ひとりの身体機能とその変化にあわせ、ICT機器やソフトウェアの使用環境を整える「適合」は、常に人の生活を、医学的知見を基盤に「作業」という視点から見つめている作業療法士の得意なことだ。たとえば紺野さんの場合、PCの操作は左手親指のスイッチで行う。田中さんが、紺野さんにとって一番PCを扱いやすい方法を考えた結果だ。「左手親指なら、スイッチ操作ができるくらいの力で動かせること、また病態が変化しても動きに変化のない部位であることが分かっていました」。またスイッチを押しやすいように手を載せる板を作るのも、作業療法士の役目だ。

 もうひとつ、重度身体障害者のICT活用において作業療法士が果たすべき役割がある。ICT機器を使う「動機づけ」の部分だ。「たとえば紺野さんの場合、PCで何ができるのか、それが紺野さんにとってどんな意味があるのかわからない年齢で、PCの操作に慣れる練習をしなくてはなりませんでした。つまらなかったり、わかりにくかったりしたら、やってくれない」。田中さんは、紺野さんが遊びの中で自然にPC操作に触れることができるように、「○×ゲーム」など、シンプルなスイッチ操作で楽しめるソフトウェアを一から開発した。紺野さんは、もの心がつく前からスイッチ操作とPCの操作に慣れていたからこそ、今、メールを使っていろいろな人とのコミュニケーションをすることができている。一方で「事故や病気などによる障害で身体を動かすことができなくなった方などは、ICTを使うことの意義はすぐに理解してもらえる。難しいのは、自分の障害を理解してもらうこと」。自分の身体の「できないこと」を把握したうえでないと「どうすれば、できるようになるのか」を理解することは難しい。作業療法士がかかわり、自分の障害と向き合う支援をすることが必要になってくる。「今やPCやソフトウェアは大変な進歩を遂げています。昔のように一からソフトを作らなくてもよくなった。しかしこの『動機づけ』の部分は、今も昔も変わりません」と田中さんは言う。

 「紺野さんは、PCを使いながら、自分を表現することを覚えていった。さらに電子メールが浸透し、いろいろな人とメールでつながることができるようになって、自分の表現に対しての反応がもらえるようになった」。お母さんや、施設の人とメールのやり取りをする中で「その言葉づかいは、ちょっと違うよ」とか「そのことを言いたいんだったら、こんな表現がいいんじゃないか」といったアドバイスをもらうことも、しばしばあるそうだ。それは、紺野さんの言葉の能力を成長させるだけでなく、紺野さんが社会とつながる接点になっている。ICTによって、紺野さんは社会に参加する手段を獲得したともいえるのではないだろうか。「今は、いろいろな人とやり取りすること自体を楽しんでいるようです。それだけでなく、今後、この仕組みを使って、紺野さんは、もしかしたら仕事ができるかもしれない。あるいは文や詩を書いて、発表することができるかもしれない」。1980年代に、意思表示の支援となれば、と考えてはじめたことだが、これほどまでにできることが広がるとは、想像していなかった、と田中さんは振り返る。大きな可能性を秘めている、重度身体障害者のICT活用。それを支えているのは、作業療法士の視点だった。

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